追伸 -五省ー

8月13日投稿文「私が見た聴いた8月15日」

最後にちらっと出てきた五省を掲載させていただきますね。

五省は昭和7年、当時の海軍兵学校長 松下 元(はじめ)少将が創始したものです。

松下校長は、将来海軍将校となるべき兵学校生徒の訓育に意を用い、日々の各自の行為を反省させて明日の修養に備えさせるため、5ヵ条の反省事項を考え出し、これを日々生徒に実施させました。

その方法は、毎晩、自習終了5分前になるとラッパの合図を鳴らし、生徒はそれによって自習をやめ、机の上を片づけて瞑目静座し、当番の学生が五省を発唱し、各自心の中で反省するものでした。

幹部候補生学校となった今も、学生の本分に照らして自らを反省し一日を終えるため、良き伝統として五省を継承しています。

日露戦争後の海軍兵学校では、「シーマンシップにおける3S精神」が強調されていたと言われています。

様相が一変しやすい洋上において、全ての措置を円滑に実施するには、機敏(Smart(スマート))であること、着実(Steady(ステディ))であることが求められます。そして、スマートかつステディに行動するためには、命令者以外は静粛(Silent(サイレント))を保つことが求められています。

防衛省 海上自衛隊 幹部候補生学校のサイトより

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

私が見た聴いた…8月15日

小学1年生の夏、はじめて学校の図書室で手にした本のことを今でも覚えている。

表題は『ひろしまの姉妹』

小中学生の姉と妹らしきふたりの少女が並んでいる絵が表紙を飾っていた。

なぜ、この本を手にしたのか未だにわからない。

ただ、何百冊、いや、何千冊ある本の中からただ1冊に引き寄せられた感は、はっきりとおぼえている。

内容は昭和20年8月6日の広島のことだった。はじめて戦争の事を知った瞬間でもあった。でも、怖くて途中で読むのをやめてしまった。

それからその本のことは、自分の中で封印した。

夏休み半ば、姉と図書館から帰ると、いつも忙しい父が自宅書斎のステレオの前で大の字になってレコードを聴いていた。

眼を瞑って…それはゆっくりとゆったりと音楽を楽しんでいるのではなく、何かを思い詰め、瞑想をしながら聴いているよう。

でも流れている音楽は、校歌みたいなのにと思ったことを記憶している。

高学年になって、あれが軍歌だったことを知った。

父がなぜ軍歌を大の字になって瞑想しながら聴いていたのか、その時は知ろうとも思わなかった。

父が亡くなる前に父のお母さん(私の祖母)から若かりしころの、青春時代の父の話を聴いた。

その時はじめて父の大の字瞑想シーンの理由がわかった。

いつか自分もこれに乗るんだという気持ちで入校したのだと思う

父は昭和20年4月2日に神戸一中(現.神戸高校)から広島の江田島にある海軍兵学校(現.海上自衛隊第一術科学校)に入校した。当時17歳。

77期生という兵学校最後の生徒。海軍の幹部候補生を養成する学校で、呉から船で10分の小さな島で毎日訓練をしていたという。

レンガづくりの校舎。修復をしながら当時の風景を残している

8月6日の朝は、訓練開始直後に大きな爆音を聞き、そのあとにきのこ雲があがったのを目撃したのだった。

8月15日の終戦は兵学校で迎え、そのあとすぐに兵学校の桟橋から船にのり母親の里、香川県の坂出に身を寄せたことを聞いた。

ここが正門。すべてはここから

当時迎え入れた私の祖母のお姉さんたちの話によると、一週間ほど放心状態で大の字になっていたそうだ。

父は兵学校でのことを私たち子どもたちには一切話さなかった。だから本当の本当のことはわからない。でも…

親を尊び、弟妹を想い、自国を守るために行動を起こしたことはたしかなこと。

そんな父の足跡をわたしはずっとたどりつづけたいと思っている。

記録に残そうとは思っていない。ただ…記憶には残しておきたい。

そしてふたりの息子たちにはきちんと伝えておきたい。

おじいちゃんの生きた姿勢を…

兵学校で毎日唱える五省。自分を省みる。左は二番目の言葉についての訳文

海軍兵学校大原分校跡に建つ碑

海軍兵学校77期生の皆さんは終戦後それぞれの土地ところで

日本の国を多方面から支えてこられた。父はとっくにお役御免だが、まだまだお元気に人生を謳歌している方がたくさんいらっしゃる。

個人的にお会いしたり、交流をさせていただいている皆様は、 本当にスマート・ステディ・サイレントの3Sを備えた方々ばかり。

御歳89歳…

まだまだ現役!

今でもこの国をしっかりと支えてくれている。

 

 

 

 

 

 

宝さがし-阪急電車の通り道-

プレゼントで、いただいて嬉しいものは何ですか?

私は、『自分が持っていないもの』というより『わざわざ自分で、自分のためには買わないもの』なのかなって思うことがあります。

自分ひとりでは行かない場所。でもメンバーとなら行ける。そしていろいろな街中の発見ができる。これも同じ事かもしれないと思いました。

西宮まちなみ発見クラブ

6月からメンバーにいれていただき、西宮の街の中の《宝物》を見つけに、街あるきをしています。

初回は福知山線の廃線跡。そして私にとって2回目のコースは、西宮の産業に潤いを与えた用水路。

用水路の立役者ともいえる百間樋川⬅なんて読むでしょう(笑)

百間樋川とはむかし仁川の川底を人の力で約百間(180メートル)を堀り抜いて武庫川の水を現在の阪急電車、甲東園駅、門戸厄神駅、西宮北口駅付近まで流したもの。

用水路として西宮の農作物、植物、産業を支えてきたもので、今では水道用に利用もされている。

街の中の用水路、歴史の足跡もところどころに漂う

百間樋の水路、西宮市立甲武中学校の敷地内を通っているのにもびっくり。↓↓↓

この水路の頭上は中学校の渡り廊下

甲武中学から国道171号線を北側にわたる地下道。その地下道には百間樋の由来が絵画とともに紹介されています。

そして、今でもずっと街の水を配分している用水路。

雨上がりで少しにごっていましたが、水ををしっかりと配分!水門もしっかりとはたらいてくれています。

ここから

ここから分流されている↓↓↓

西宮北口駅の自転車置き場下付近の用水路までも続きます

西宮北口駅から北へのびる阪急今津線

22年前の阪神淡路大震災、西宮の街は火災がおこったものの、広がらず焼失しなかったのは、この用水路たちの存在が大きい

と、メンバーの方々から聴きました。

街の宝物ですね。今でも…

やはりひとりでは見つけられない

宝物は…