小学1年生の夏、はじめて学校の図書室で手にした本のことを今でも覚えている。
表題は『ひろしまの姉妹』
小中学生の姉と妹らしきふたりの少女が並んでいる絵が表紙を飾っていた。
なぜ、この本を手にしたのか未だにわからない。
ただ、何百冊、いや、何千冊ある本の中からただ1冊に引き寄せられた感は、はっきりとおぼえている。
内容は昭和20年8月6日の広島のことだった。はじめて戦争の事を知った瞬間でもあった。でも、怖くて途中で読むのをやめてしまった。
それからその本のことは、自分の中で封印した。
夏休み半ば、姉と図書館から帰ると、いつも忙しい父が自宅書斎のステレオの前で大の字になってレコードを聴いていた。
眼を瞑って…それはゆっくりとゆったりと音楽を楽しんでいるのではなく、何かを思い詰め、瞑想をしながら聴いているよう。
でも流れている音楽は、校歌みたいなのにと思ったことを記憶している。
高学年になって、あれが軍歌だったことを知った。
父がなぜ軍歌を大の字になって瞑想しながら聴いていたのか、その時は知ろうとも思わなかった。
父が亡くなる前に父のお母さん(私の祖母)から若かりしころの、青春時代の父の話を聴いた。
その時はじめて父の大の字瞑想シーンの理由がわかった。
父は昭和20年4月2日に神戸一中(現.神戸高校)から広島の江田島にある海軍兵学校(現.海上自衛隊第一術科学校)に入校した。当時17歳。
77期生という兵学校最後の生徒。海軍の幹部候補生を養成する学校で、呉から船で10分の小さな島で毎日訓練をしていたという。
8月6日の朝は、訓練開始直後に大きな爆音を聞き、そのあとにきのこ雲があがったのを目撃したのだった。
8月15日の終戦は兵学校で迎え、そのあとすぐに兵学校の桟橋から船にのり母親の里、香川県の坂出に身を寄せたことを聞いた。
当時迎え入れた私の祖母のお姉さんたちの話によると、一週間ほど放心状態で大の字になっていたそうだ。
父は兵学校でのことを私たち子どもたちには一切話さなかった。だから本当の本当のことはわからない。でも…
親を尊び、弟妹を想い、自国を守るために行動を起こしたことはたしかなこと。
そんな父の足跡をわたしはずっとたどりつづけたいと思っている。
記録に残そうとは思っていない。ただ…記憶には残しておきたい。
そしてふたりの息子たちにはきちんと伝えておきたい。
おじいちゃんの生きた姿勢を…
海軍兵学校77期生の皆さんは終戦後それぞれの土地ところで
日本の国を多方面から支えてこられた。父はとっくにお役御免だが、まだまだお元気に人生を謳歌している方がたくさんいらっしゃる。
個人的にお会いしたり、交流をさせていただいている皆様は、 本当にスマート・ステディ・サイレントの3Sを備えた方々ばかり。
御歳89歳…
まだまだ現役!
今でもこの国をしっかりと支えてくれている。